昭和43年03月30日 朝の御理解
御理解 第56節
「に、日にちさえ経てば世間が広うなってゆく。ひそかにして、信心をせよと。日にちさえ経てばと。世間が広うなってゆくと。ひそかにして信心をせよと。」
お互い日々こうして信心の稽古をさせて頂いております。世間がここんところで、私は一番大事なことは日々、月日がこう経っていくという事ですね。その間にその世間が広うなってゆくというおかげを頂かなければ、おかげを受けられない。それには一人、日にちさえ経てば世間が広うなってゆくと、ひそかにして信心はせよと。ひそかにして、ひそかにして信心はせよと。
ここのところもまた大事ですね。どうでしょうか皆さん、信心が出来て行きよるだろうか。ひそかにしていくところの信心というのは、もう実に楽しいものです。昨日あの、渡辺先生が毎日お日参りになっています。もう本当にこの、一人ひそかに信心するということが、もうどんなに楽しいことか。家に帰りますともう来客が、もう引っきりなしでございますから、もうしみじみと自分の心を振り返って見ることも出来ないし。
まぁ信心のことを思うておることも出来ない。けれども福岡からここまでこらせて頂く電車の中、バスの中、もうこれは神様のことばっかりを思うてこれる。ね、たまにはご信者さん方と一緒に、連れのうたり、どうですか、この車に便乗なさいませんかというて下さる方もあるのですけれども、そうすると今この有り難い心持がですね、お話、有り難い気持ちを話しておると、その有り難い気持ちを、はぁそうですね。
そうですねっていうて聞いて下さりゃいいけれども、そんなことがあるじゃろうかというような風で、聞かれたらもう心が寂しゅうなる。同時に又信心でない、世間話でも、たったそれだでの楽しい時間を、世間話でもされたんじゃ、もう折角のひそかに信心する、楽しみというものをなくしてしまうというのである。確かにそうですよね。本当に自分が頂いておる、信心の喜びというのを話しても、有り難いことですね。
という風に向こうに、入っていきゃいいけども、そんなことがあるじゃろうかと。あぁそうですかって、ふんふんとこう鼻の先で、あしらわれるような聞き方でもされたら、もうこちらのいわゆる信心、そのひそかに信心して行くという、そのことがね、信心には大事。又それが楽しみになるような信心にならなければですね、いわゆる世間が広うなってゆくとようなおかげになってこないのです。
世間が広うなってゆくというおかげ。ということはですね、どういう事かというと、心が広うなるということなんです。心が大きゅうなるということなんです。ね、だから世間が広うなってくる。天地がわが心のなかにあるような境地さえだんだん開けてくるようになる。誰が何というたっても、私の心のなかに咲く花を、それこそ天地の親神様より他に知る人はなかろう。
金光様より他には知る人はなかろうというような、その信心の喜びというものがですね、出来て来る。それが、なら心が広うなる。どうぞ、日にちさえ経てば世間が広うなってゆく、ひそかにして信心はせよと。ひそかにして信心をせよ。その味わい、その楽しみというものをですね、まず一つ分からせてもらい、身に付けさせて頂かなければならないと思うです。元の神愛会、ここの前身でありますね。の綱領に。
福岡の初代の先生の「馬鹿と阿呆で道を開け」と。久留米の初代の「信心辛抱さえしておれば、物事整わんことない」と。三井教会の初代であり又は荒巻先生のご信心である所の、「こりをつますなこりをつむな、身を慎め」と。と言うようにございます。最後に、私が頂いておる信心。お道を(いがす?)。信心を汚す、心配をさす。この三つのす、いわゆる御簾を奉る。
これは私は、今日改めてそこんところを分からせて頂いたんですけれどもね、これはですね、そういう例えば先輩、先覚あたりのご信心を流れをくんで、ここに私の信心が生まれ。そういう信心を、本当にあの、ある場合には馬鹿と阿呆にもならせてももらい、ある場合には辛抱の出来んところを辛抱し抜かせてもらい。ね、こりつましちゃならん、こりつんじゃならん。
本気で身を慎ませて頂いてと言う様に、精進もさせてもらい努力もさせて頂いてですね、ここん所をはそういうおかげを頂かせて頂く中にです、世間が広うなって来た。ね、そういう信心を身に付けさせて頂きよる中にです、一人ひそかに信心の出来ることがもう楽しゅうなって来た。もうこのひそかに信心が出来るという、この信心はね、もう人じゃ分からん。ほんなこっちゃろうかというような、いわば境地が開けて来る。
そこにです、私は御簾を奉らせて頂けれるおかげ。だからここの綱領の上三つは、私共の行の上に現れていかなければならないものだと。最後の四番目のはですね、こういうおかげを受けなければならんという事だと思う。ね、いやもうあっちは一生懸命合楽にお参りしござったが、人間も変んなさったが、ね、家何かも立派になった。家庭も円満に行きよる。お金も残りよるじゃろうと例えばです。
これはね、これが出来てこそ、私は御簾を奉る事が出来たんだと。あっちはもう、信心なそっりゃしござるけれども。何時も家の中はぶっつりがっつり、何時行ったって家の中は真っ暗。あ、借金なもうおおいかぶってござる。病人がたえん。ね、そういう中にあって、そういう中にあってそれが一つ一つがおかげになっていかなきゃいけん。その時こそが初めて、御簾が奉れる時になる。
椛目の時代に、御簾の、あの私の借金払いが出来たと同時に、御簾のお供えがまいりました。他所の教会ではほとんど、御簾も使っておるけれども、ここほど御簾を沢山使ってる所はないですね。三段にも御簾がなっていったり。この、こんな見事な、こんな大きなまぁ御簾の使っておるのまだかつて見た事がない他所の教会。初めの間は私はここは記帳にしたいと思うて、他所の教会なりに、布のこう下がるやつ。ね、
ところがどうしたことか、結局こういう事になってしまった。そしてこれがやっぱりすきっとして良いなという事になった。ね、もう本当にこれ以上の御簾を奉ることは出来まいというように、もうこれは何処でも見ることの出来ないほどに立派な材料でこれしてあるんです。最高の御簾である。ね、その御簾を奉らせて頂く、段々素晴らしい御簾が奉らせて頂き、いやもっともっと素晴らしい御簾が奉れる。
やっぱり大坪さんがあげん言いよったばってん。本当やっぱあげんおかげ頂いた。っていよった人達が、やっぱりこの頃大坪先生、大坪先生と言われるようになって来た。ね、最近ではもうここに来ると、恐れ入っていまうとそういう人達が言うようになった。今まで私がいよった事はですね、もう、ま本当な事だけれどもですね、本当のものには見えないほどに素晴らしかった。
分からない私の気持ちが。私が頂いておるおかげをいうても、そりゃ、うだごつ大きい事ばかり言う、又は嘘の意じゃろう。こっちゃ。ちったしらごっちゃろう。オーバーじゃろう。というような聞き方をするほどに、おかげを頂いて来たその事実がこの合楽教会に現れて来た。この頃それを皆がこう認めて下さるようになったという事は、もう厳密にいうとお互いがですね、やっぱりお道をけがしておる。
信心あるために汚しておる。だからここんところをです、どうぞ御簾を奉らせて下されという信心が本気でなさらにゃいかんと思うですね。いわば、言い替えますとおかげを頂かせて下されという事なのですよ。ね、でないとですね、あなたのお顔を汚します。でないと折角の素晴らしい生き生きとした道を汚してしまいます。同時に、自分の心までも汚すようなことになっては相済みません。
どうぞ御簾を奉らせて頂けれるおかげを頂かせて下されいという事になってくる。私はそこでです御簾を奉らせて下されいというて、お願いをしておかげを頂いてね、まぁその代わりというちゃならんけど。そういう御簾を奉らせて下されいというて願い続け、一心に願って一心に修行させて頂いておる間に、どんなに素晴らしい御簾を奉らせて頂ける事が出来るようになりましても、金輪際信心を緩める様な事は致しませんね、
頂いた物がかえっておかげを、落す様な事になりませんだけの、信心を身に付けて、おかなければならないという事。ね。御簾を奉らせて下され、御簾を奉らせて下されという事は、どうぞ誰が認めてもなるほど、金光様の御信者じゃなぁ、なるほど合楽に参りござる、御信者さんじゃなぁと、ね、皆が認めてもらえれるような、おかげを受けるということが第一なのだ。
それにはです、自分の心の中に、もう決して、決しておかげを頂きました、いや御簾を奉らせて頂きましたあかつきになってです、信心をゆるめるような事にもならない、信心を落とすような事にもならない、いよいよ益々有り難い信心に進ませて頂くという見通しがつかなければ、神様もやはり御簾を奉らせて下さらん。いやもう頼む時だけ一生懸命拝んどいてから、神様だまくらかすこたる事する人がある。
はぁいっちご忘れはしません。もうこの御恩ないうとっても忘れて信心落として行ってしまう人が沢山あるんです。これでは本当のみすが奉らせてもらえるはずがない。だから本当の信心を本気で身に付けて行くという事を願いとしなければならないというのです。昨日は、久留米の野口さんの所の謝恩祭であった。私は本当にあの、もう本当にここの場合は思うんです。
もうそれこそ一年一年確かに、お祭りは素晴らしくなって行く事です。もうそりゃ形に表れて来るお祭りもですけれどもね、その内容が。もう本当に頭が下がりますですね。信心しておれば一年一年有り難うなって来ると仰るが、確かに一年一年有り難うなっていきござる証拠ですよ。ん。もう今まではあちらではですね、親戚の方達も見えましても、御理解が非常に説きにくかったんですよね。
親戚の、信心のない方達がくるですからね。例えばこう、(ぴんと?)するさっきの話じゃないけど、跳ね返って来るようなものがあったんです。ところがその兄弟、子供達、娘婿達、親戚、それに繋がる親戚までも、まぁ見えておるけども、その皆が合楽にお参りするようになったという事。ね、とにかくもう何時の場合でも、どのような事でも、合楽の親先生中心なんです。
合楽の親先生どげん言いなさったね、とこういう事なんです。もうそれは、私あのまぁ本当に信心というのは有り難いものだなぁとこう思うです。一年一年。有り難うなって行きんなさる証拠だと私は思うですね。私の控えにあててあった部屋にその八重椿ですかね。いやたぶん、何椿でしたか。椿が一輪入れてあった。私は始め造り物かと思った、あんまり素晴らしくこう開いておる椿。
けどもやっぱ時期のもんだから、そんなもんだ、側で見たらやっぱほんなもんじゃった。そこでこう見ても作り花のようにある。こっちの方には、整理ダンスの上にシャンハイフラワーっていうですか、あの造った花がね。もうそれこそ本当の物のように刺してある。もう素晴らしいことになってまいりますとですね、本当な物であっても造り花のごつ見えるのですよ。又素晴らしく出来ておりますとですね。
その造り花でも本当の物のように見えるようになり、本当の物がこりゃ造り花じゃなかじゃろうかというごと見えるんですよ。私共なんか、まぁある意味合いで信心も出来んのに、素晴らしいおかげを頂いてまりましたんです。ですからそのおかげの話しをいたしましてもですね、まるっきり作り話しのようにしか受けない人が沢山あった。実際ここに来て見てなるほどと合点が行くくらいです。
いうなら、本当の花だけれども、それが造り花のようにしか見えなかったと。というほどにおかげを頂いて来た。ただここに違わせて頂くことは、分からせて頂く事はです、ねその花が活き活きとして水を上げておるという事。だからつぼみなら開きもする、開いておるものは散りもする、又葉が枯れて落ちる事もある。これは生きておるから。世間には、あっちは幸せ。信心がないけれどもお金もある。
夫婦も円満。もうどことっても子供さん達もよう出来なさる。本当にあっちこそ幸せじゃろうというのがあるんですよ自分、私共の周囲に。ところがなら愈々その家庭に入って見るとです、もうそれこそ誰にも言われん悩みがあったり、本当にあれだけの家内があってどうしてあげん不平不足言いなさらんなんじゃろうかと言った様な、不足を言わなければならない様な、本当の難儀というものがそこにあるという事。
それは丁度、その造り花のようなものなんです。ね、ほんなもんのごたる、ほんな幸せのごたる。けどもそれは、一つも水を上げていない。なるほどぎょうぎばんたんの上にでも、それこそあなたこなたで呼ばせて頂くように、家庭の中こっとりともいわんというような風しちゃるけん、いかにも立派のごたるけれどもそれは何時も同じこと。開きもしなければ、散りもしない。
そして心の中には何時も満たされない。これだけのものを頂いておっても、幸せを感じきらない人達が世間にはどのくらい多いか分からない。昨日これは、私の控えに、それから御神前にお供えがしてある、その花が何時も、まぁ花言葉じゃないけれども、花で何時も御理解頂く。もう絶えず自然はこうしてもの言う、きかけて下さる。私共控えた所、控えた所にはね、木蓮の花が大きく入れてあってね、
それに三つのもう開いて、もう散るばっかりのような花が三つと、莟が一つこうある。昨日入れられた時までは四つの花が開いとったげな。な、つぼんじゃったげな丁度好い加減な。所が先生が見えるちょっと寸前にもうこげん開いてしまったっですよというてその、三つが開いておる。それを赤のあの木瓜という花がありますね。の花でこう、まぁ調和をとってあるお花であって。木蓮、白の木蓮。
何とはなしにこう、しょうじんめいてますですね。白の木蓮というその名前そのものが、アマさんの名前んごたる。感じでしょう。ね、しかも白。私の寿命が、もう4分の3はしまえておる。まぁ後残っても4分の1だけが莟で残っておるという、まぁ昨日のその御理解からこう考えて、そんなものを私が感じたんです。それをこう引き締めておられる。それがあの木瓜の花。
まぁ是は繁雄さんがボケという訳じゃなかけれども、そういうです私があんたにボケっていうて悪口言いよるちゃないけれども、まぁ言うなら素朴という意味なんだ、その素朴の花が今日はここの部屋をいわば活き活きとしたものにしてるんだと。木瓜の花と木蓮の白の花の取り合わせがね、本当に私の昨日一日の気持ちを表現する様に入れてある。御神前に参りますと、後ろに松の枝をいっぱい使って真中に菊が使ってある。
バックを松の信心中心がと合楽の信心、菊の花がですねそれにあのユーカリというのが後ろに、その前に都忘れというあの素晴らしい小さい菊の花。もう紫のこゆい花がありますよね。都忘れというそれが挿してある。その根のところに真っ赤な弁慶百合っていうですかね。弁慶百合が入れてあってある。そういう色々な花を取り合わせて、見事に花が入れてあった。もうその花の中から、感じるでしょうが。
ユーカリというのはまぁ幽界あの世という事である。ね、都忘れという事はこの現実なことです。現実の様々ないわば良しあしのものを持っているけれども、もうその事も忘れてしまっておると言う事都忘れ。所謂いうならば幽明の境を事にしておるという事。いうならばあの世とこの世の今境にあるという事。それを弁慶花弁慶花というのはこれは弁慶といやもう力が強いものだとこういう、真っ赤という熱情である。
その信心がこう支えておる。もう本当にそのままね、天地がものを言いかけておって下さるように感じるのです。ところが昨日一日の間にどういうことになって来たかと。例えば皆さんがおかげを頂く。それは皆さんの信心一つで焼いて食べようと煮て食べようと皆さんの勝手なんです。けれどもね、超人間というかね、力の強い人( ? )きるこっちゃない。ね、
人間でんなんでん頭から塩を付けてがぶがぶ食べる。という事はね、本当に生か死かといったような、例えばことに直面いたしましてもです、それをそれこそ塩をつけてがぶがぶ頭から食べれるような力が欲しいのである。塩という事はどういうことか。これを死ぬる生きるの死を保つと書いてある。はぁこりゃ私はおかげを頂いた。昨日の私の頂き方は間違っていなかった。
もうそれこそ焼いてでもない、煮てでもない。それこそ頭から塩を付けてがぶがぶ食べるような心の状態を持って、例えば昨日私がお話したような問題を、ような事柄をです、私が頂いた。そのことを本当に合掌して頂いた。普通では頂けるこっちゃないけれども、そこにはやはり超の付くほどの、ね、違った力を、日頃の信心によってきたえておるおかげで、さぁどっこいという暇もない。
もうどっこいといわんでも良い位にたんたんとしてそれを、頭から塩つけて頂くようにおかげを頂いておるという事。そこに例えばそこに運命がですね、もうこれでお終いの運命でも、そこから開けて来る。私が常日頃申しますでしょう。どのような問題があっても、どのようなことになっても、それを本気でどっこいと受ける、又は合掌して受けれる。そういう稽古をです、お互いがしておくという事が、ね、
こうりょうの三つを申しましたでしょう。「馬鹿と阿呆で道を開け」ね、「信心辛抱させしておれば」と。ね、「こりをつむな、こりをつますな」というその三つのそのみ教えがです、そういう信心を本気で行じさせて頂くところからです、ね、自分の心の中に生まれて来るのが力である。もうこういう力を身に付けて行くことになってまいります時に信心は揺るがない。
これから先どのような事が起こって来ても、驚かんですむおかげが受けられる。そこに、御簾を奉らせて頂けれるところのおかげが受けられるのである。道をお道を汚す信心を汚す心配をさすと仰るが。ね、そのために心を汚すようなことなし、そのためにお道を汚しておるような事なかろうか。厳密に自分という者を反省させて頂いて、どうそ神様御簾を奉らせて下されいという願いを持たなければならない。
ね、そのために、今申します信心を内容としてのおかげになってこなければならん。ね、そこにです、日にちさえ経てばです、世間が広うなってくる、そういう信心をさせて頂いて。初めの間は、あの人達が、はー信心なしござるばってんというて、まぁ影口を聞くようなことも、面と向って言われるようなこともあろうけれども、そこんところをです、ひそかに信心させてもらう。
ただ自分の心の中の喜びは、この人達に言うたっちゃ分からん。この喜びを大事に大事にしていくという、ひそかに信心するという信心からです、世間が広うなってくるおかげ、心が広うなってくるおかげ。ね、いよいよ世間が広うなってくるおかげ、物の見方考え方が全然変わった考え方が出来るようになるということ。そこに私は、初めて御簾を奉らせて頂けれるおかげが受けられると思うのです。ね、
皆さんそれはね、焼いて食べようと煮て食べようと皆さんの勝手なんだけれど、どのような問題であってもですもうそのままがばっと頂けれる信心。それこそ塩つけて頭から食べられる様な超と付く様な力を、私は頂いて行きたいとこう思うそこに超が付く様な、ね、人が見たら人が聞いても、ほんなこっちゃあるじゃろうかと言った様なおかげが現れて来る。それがほんなこっである証拠には、生き生きとして水を上げておる。
造花のようなおかげではおかげじゃいけません。ね、ですからそこは生きた花ですから、しおれもすりゃやっぱ散りもする。そのかわり開きもする散っても次にはもう開いていきよる。そういう信心を私はお道の信心である、教祖はそういう信心をですお互いの生活の中に、おかげを示して下さったというふうに思うです。どうぞ一つあれはほんなもんじゃあるじゃろうか。造り花じゃなかじゃろうかと言う様な。
一つおかげを皆さん頂いてもらいたいと思うね。そん為に今日の御理解をもう一遍、どうぞ一つ頂いて下さい。日にちさえ経てば世間が広うなってくる。果たして日にちさえ経っていきよるけども、世間が広うなって行きよるかどうか。自分の心が広うなって行きよるかどうか。物の見方考え方というものがです一人ひそかに信心の出来る、信心の喜びというものが心の中にあるかいなかそういうところを確かめ、確かめ信心を進めて行きたいと思うですね。
どうぞ。